NPO【学校外のいばしょ・タートルスペース】代表紹介

【学校外のいばしょ・タートルスペース】は、代表・井上希恵の児童期からの「学校への違和感」が運営の原動力です。

そこで、みなさまに【タートルスペース】についてよりよく知ってもらうために、井上希恵という人間について紹介します。

1981年、千葉県の田舎町で生まれる

7つ上の姉と歳が離れて生まれた子だったこともあり、両親からの厳しい躾もなく、幼少期は、自由奔放に野原をころげまわって遊んで育ちました。
バッタを追いかけたり、ローラースケートで近所を爆走したり、塀にのぼって怒られたり、木の実をつぶしておままごとをしたり、母親と祖母のつくった畑で走り回っていました。
爪のなかはいつも土がつまっているような子。

おうち遊びも好きで、特に絵本が大好きなので毎日読んでいました。
そのおかげで就学前には読み書き、簡単な計算などができました。

家には犬や猫がたくさんいたので、動植物と過ごすことが当たり前の日常でした。
幼稚園では、「自由すぎてちょっと変わりもの」だったようですが、そんなことはお構いなしで楽しく過ごしていました。

小1~小2 学校になじめない

ところが就学すると一変して、学校になじめない自分がいました。

学校の独特のにおい、チャイムの音、号令で一斉に動く同級生、いつも怖い顔をしている先生。
すべてが違和感のもとで、学校にいるときはものすごく無口になってしまいました。
45分間ずっと座りっぱなしでお尻がムズムズするのでフラフラと立ち上がってしまうこともありました。(今では支援級を勧められてしまいますね)

保護者面談や通知表では「マイペースすぎる」と何度も指摘をされましたが、母はいつでも笑い飛ばしてくれました。
いま思うと、この楽観的で、わが子のでこぼこを深刻に受け止めない母親の明るさに救われていました。

放課後は、相変わらず友達と自転車で走り回り、野原をころげまわって遊びました。
知識欲もあり、新しいことを覚えるのが好きでした。知らない世界を知ろうとすることも好きでした。

学校以外では、元気なんです。ただただ、学校が、苦手だった。

小3~小6 先生によく怒られる子

3,4年生くらいから、お友達もできて、学校でも元気に過ごすことが増えてきました。
ただ、高学年になるにつれて先生の指導も厳しくなりました。

当時、まだ体罰が公然と行われていた時代です。
多様性などという言葉も浸透していません。
和を乱すものは、もれなく怒られる。罰を受ける。
大暴れすることもないけれど、なんとなくズレたことをする私。
反抗心でわざとやっていた部分もあります。

机の上に1時間正座をさせられたり、「スクワット100回の刑」を受けたりしながら、「やっぱり学校は変な場所だよ」と心の中でいつも叫んでいました。
苦しかったです。

図工室の先生に癒される

学級で怒られたとき、図工室に逃げ込むと、いつも笑顔の図工の先生が温かく迎え入れてくれました。
担任の先生の愚痴もきいてくれました。
「君は君のままでいいよ」「面白い子だよ」と励ましてくれました。

当時の私にとって自己肯定感の回復スポットだったのです。
今でも美術・芸術が大好きです。

親以外に自分を受け入れてくれる大人がいることは、こどもの成長にとって本当に大事なことです。

あの先生がいなかったら、どうせ私なんてダメな子なんだ、と思って、ひねくれて二次障害を起こしていたかもしれない。
社会に危ない復讐心を募らせていたかもしれない。そう思うとぞっとします。

私は、あの図工室をつくりたい!その想いがいまのタートルスペースへの架け橋となっています。

当スペースは、夕方の進学塾の場所をお借りして開催しているので、一般のフリースクールのように、体を大きく動かしたり、大規模なイベントや、集団活動はできない。
でも、あの図工室にはなれる。私にもできる。

そう信じています。

中学時代 起立性調節障害と診断される

全体主義や集団圧力にいまだ違和感はあったものの、バスケットボール部に入り、仲間もたくさんできた中学生時代。
そのころには先生に反抗することもばからしく思えてきて、まじめに過ごしていました。

ただ、朝、体が動かないのです。怠けたいわけじゃない。
それなのに、体が石のように動かない。

病院にいくと、当時はあまり知られていなかった「起立性調節障害」であることがわかりました。
母がうまく担任の先生に伝えてくれました。幸い、理解のある先生でした。

深刻に受け止めず、明るく対応してくれた母にまた救われました。

いまでも、起立性調節障害で悩む小中学生のお子さんがたくさんいると思います。
学校の先生からの理解が得られず、苦しんでいる子もいるでしょう。

お話をききますよ。
起きられず、学校に行けなかった日だけ、当スペースに来てのんびり学習していただくこともできます。
「今日も行けなかった」という罪悪感を軽くするお手伝いをします。

利用料は都度払いなので、オリジナルな利用法を見つけてくださいね。

ところで私の起立性調節障害ですが、年齢とともに軽減し、18歳ころにはすっかり治りました。
お医者さんじゃないので無責任なことは言えませんが、きっと楽になっていきますよ。

高校時代 英語をがんばる

小さなときから海外への憧れがありました。
欧米の映画をよく観ていたからだとおもいます。
授業中もガムくちゃくちゃ、破れたジーンズとバックパックで登校。
授業中も「なんで?」「どうして?」と自由に意見が飛び交うハイスクール。

ちょっと浅はかかもしれませんが・・・そこに、私がずっと求めていた学習環境があるような気がしたのです。
とりあえず、英語をがんばろう。
そのうち海外に行こう。
目標ができて、勉強が楽しくなってきました。

こどもは動き出すタイミングを知っています!
誰かに言われて、ではなくて、今だ!というタイミングで動き出す。

それを大人は黙って見守れない・・・わかります。
私も2児の母です。「漢字くらい覚えたら?」「英検〇級くらいは持ってないとさ・・・」言いたくなりますよね。

そんな時、やる気ゼロ人間で学校だいっきらいだった少女(自分)を思い出して、ぐっとこらえています(笑)。

大学時代 交換留学生となりイギリスへ

獨協大学外国語学部英語学科に入学。

その後、交換留学生になる試験を受け、提携校である英国立大学で学ぶ夢を叶えました。
「好き」のパワーはすごいです。

イギリスの大学では、私がずっと受けたかった授業のスタイルを体験できました。
活発な討論。
先生は一方的に話すのではなく、生徒が主体となって先生にどんどん噛みついていく。

圧倒されました。
ちょっと異端児だと思っていた自分が恥ずかしい。

いざとなると、なんも言えなくて、黙ってノートをとっていました。実に日本人的。
情けなくて、悔しくて、クラスを受ける前には念入りに予習して、ひと言でも発言ができるように準備して挑みました。

一年が経つ頃には、活発に発言ができるようになってきました。まあ、やってみるものです。

銀行に就職 外国為替担当

帰国後は銀行に就職しました。
得意な英語を武器に、外国為替センターに配属されました。
社会勉強させていただきました。

でも、ずっとやる仕事ではないかな、と思いながら。

25歳で結婚 出産 英語教室開校

こどもの側にいたい!仕事もしたい!得意を生かしたい!
と欲張りな私は、出産後すぐに自宅で英語教室を開きました。

口コミで広がり、近所のこどもたちがたくさん学びに来てくれました。

熱意だけはじゅうぶん。
多い時で30人の子どもたちが入れ替わり通ってきてくれました。

決しておりこうさんでなかった子ども時代を送った私は、生徒たちの個性を大切に育てられる自信がありました。

甘かった!!子どもが10人集まると、理解のペースがみごとにバラバラ!
一度つまずいて取り戻せない子が出てくる。
その子のためにわかっていることを何度もやらされる子がいる。
にぎやかな子にちょっと黙っていてもらわないといけない。
消極的な子の背中をぐいぐい押してプレッシャーを与えてしまう。

わたしが「なりたくなかった先生」になっていたことに気づいたのです。
こんな先生嫌い、こんな教室嫌い。

みんな育ち方は違うのに、そろえようとしている。

誰のため?指導者のためだ。

そこで、クラス編成を大きく変えました。
就労時間は増えてしまいますが、クラスを細分化し、個性の違い、状況の違いを尊重しつつ、ひとりひとりに寄り添える人数だけを同時に指導するようにしました。
すると、子どもひとりひとりが生き生きと通ってくれるようになったのです。

正直、英語なんてやりたくない、親に言われて来ている、という子もいましたが、最後には「先生に会いに来ている」と言ってくれるようになりました。

ちょっとあの時の「図工室」になれたのかな、と嬉しくなった瞬間です。

生徒数はだいぶ少なくなりましたが14年間続いている小さな教室です。

わが子の不登校

ふたりの子どもが、半年ほど学校に行けなくなりました。

上の子は中学1年生の時、下の子は4年生の時です。
理由は、ひとことでは言えません。
いじめ、担任の先生との相性、授業のつまらなさ、など複合的に絡み合っていました。

理由は問い詰めませんでした。
本人もよくわからないのです。

朝、体が動かない。
夜、涙が出てくる。
体がSOSを出している。
それがすべてだと思ったのです。

体と心が休みたがっている。壊れる前に休ませよう。
これが私と夫の共通の考えでした。

まず、ひたすら眠りました。なにもしない。

次に、好きなことだけをしました。
ゲーム、映画、漫画、活動量の少ないこと。

そのうち、好きな習い事には行けました。
自信が戻ってきました。

しばらくして、ひとりは自治体の学習支援センターへ通いました。
もうひとりはフリースクールに通いました。

得意な科目から、学習を再開できるようになりました。
今では、ふたりとも復学をしています。

学校だけがゴールじゃない。
そう思えた瞬間、親子ともども楽になり、前向きになれました。
学校に通うために育てているんじゃない、幸せに生きていてほしい。
ただそれだけ。

このお話は、保護者面談でたっぷりできますので、どんどん聞いてくださいね。

学校外の居場所づくり

学校が嫌いだった子ども時代の私の経験からはじまり、

英語講師としてたくさんの子どもたちと接して、こどもはひとりひとり違うかけがえのない存在であることを知り、わが子の不登校を通して安心して心を休めることの大切さを学び、今に至ります。

お気軽にご相談ください。

rokuchoclassroom@hotmail.co.jp

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